コージーハウジングの代表になって現場を離れるまでずっと、大工として勤めてきました。
コージーハウジング設立の背景には、私の大工としての生い立ちが強く影響しています。
ここでは私の職人にまつわる生い立ちをご紹介し、コージーハウジングがなぜ生まれていたのかを紐解いていきます。
野球選手の夢を失った少年期
私は幼いころ、プロ野球選手になることが夢でした。
毎日毎日野球の練習に明け暮れ、ずっと野球詰めの生活です。その時の私は、甲子園に出ることを夢見ていました。家族も、そんな私を応援してくれていました。
しかしある時、大きな怪我をしてしまったことで、思うように活躍ができなくなってしまいました。
試合にも出られず、甲子園への夢は断念せざるを得ませんでした。
このときの失望は、今でもよく覚えています。
野球選手の夢を失った私は無気力になってしまい、野球の強豪校ではなく公立高校に入ることになりました。
野球以外に特にやりたいことがなかった私は、高校でも目指すものがまったく見つからずにいました。
運命のあの日
高校では目指すものもなく、なんとなく大学へ進学をしようと予備校に通いながら浪人していました。
そんなとき、野球をしていた頃の友人が「たまには体を動かそうぜ」とアルバイトに誘ってくれたのです。
その友人の父親が塗装やサイディングの職人さんで、そのアルバイトの内容が、雨樋をかけたり、壁のサイディングを貼ったりする「大工」の仕事でした。
このアルバイトが、私の大工との出会いになりました。
そのアルバイトの最中に気づいたのは、大工という存在の大きさでした。
現場では、大工以外にも様々な専門の職人が集まって家を建てています。
そんな中、たくさんの職人たちが、「大工さん、これでいいですか?」「大工さん、こっちをお願いします」と、大工に指示を仰いだり、作業のお願いをしていたのです。
このとき私は、大工さんってすごいんだ、家建てる中心人物なんだと知りました。
その日の昼休みに、現場にいた大工に直接、大工さんの仕事を聞きに行きました。
年配の大工さんでしたが、「君みたいな若いもんに見せても何もわからんよ」と言いながらも、図面を見せながら説明をしてくれました。かんなをかける姿に憧れたことが、今でも胸に残っています。
この日が大工との出会いとなり、私の人生を完全に変えてしまったのです。
この日は12月、もう大学の願書を出そうかという時です。
予備校まで行かせてもらって大学を目指していた私は、この日からどうしても、「大工になりたい」と思ってしまったのです。
大工さんへの道へ
大工になりたいという気持ちは固まったものの、予備校にまで行かせてもらっている身で、「大工になる」と伝えることは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
それでも、私は本気で大工になりたかったので、家族にこの気持ちを打ち明けました。
「俺、大工になりたい」
そう素直に伝えました。
そのとき、1番反対すると思っていた父が、私に言った言葉はこうでした。
『お前がやりたいならやってみろ。そのかわり、「やめたい」とか言うなよ』
父は背中を押してくれました。
「やるしかない!」と気合を入れ、予備校をやめて大工修行をスタートしました。
19歳の冬でした。
大工修行
修行をはじめようにも、どうしたら大工になれるのかは正直わかりませんでした。
そこでまず、工務店の社長をしていた野球チームの監督に相談に行きました。
すると監督はすぐに「健太郎、じゃあうちにおいで」と言ってくれました。
とてもありがたいお誘いです。
しかし、私はこのお誘いを断りました。
どうしても、知り合いだからと甘えてしまうのが嫌だったのです。
一人前の大工になるためには、厳しい環境に身を置くべきだと直感していたのです。
そんな私に、「だったら、注文建築をやってる、厳しい親方につくといい」と、監督はアドバイスをくれました。
そのアドバイス通り、自分で近所の工務店さんを探し回り、「この人に学びたい!」という親方を探しました。
15~20社ほど回ったときでしょうか、ようやく本気で学びたい親方を見つけました。
しかし、その親方は頑固な方で、最初はまったく相手にされませんでした。
「今の若いもんには大工できないよ」
こう言われてしまったのです。
弟子にしてほしいと言っても、一切見向きもされません。
2回断られ、それでもめげず3回断られ、それを見かねた工務店の社長にも応援してもらい、なんとか親方に弟子入りしました。
それから8年間は、1番弟子として修行に励みました。
ここで私は、大工としての腕をみっちりと仕込まれました。
この8年間は、職人としての私のかけがえのない財産です。
棟梁として独立
8年間修行した27歳になったとき、私は独立して棟梁になりました。
独立したときに設立したのが、コージーハウジングの元となる菊井工務店です。
菊井工務店の社長として、棟梁の道をスタートさせました。
しかし最初は、「若いから」と信用してもらえませんでした。
大工は経験が物を言う世界で、若さはメリットにはなりません。
独立してからなかなか仕事をもらえない時期が続きました。
しかししばらくすると、ビルダーさんからお仕事をもらうことができました。
その仕事をしっかりとこなしたことで腕を信頼してもらうことができ、少しずつお仕事をもらえるようになっていきました。
そうして仕事が軌道に乗っていき、ついに1人では回らなくなってきました。
お断りすることも増えてきたことで、
「菊井健太郎がもう一人必要だ!」
そう考え、30歳ではじめて弟子をとりました。
そこから弟子は少しずつ増え、35歳の時には5~6人に増えていました。
そこからどんどん弟子たちは一人前の職人として育ち、今では現場は頼もしい弟子たちに任せるようになりました。
私は職人から、社長になったのです。
代表の私からお客様へ
長い職人の時代を経て、私はコージーハウジングの社長となりました。
ただ、職人の時代から今日まで、私の想いは変わりません。
家づくりは、夢づくりである。
その想いです。
家はほとんどの人にとって、一生で最も高い買い物になります。
また、人生で家を買うことができない人もいる。
誰もができることではないからこそ、家を建てることは人の夢にもなります。
だからこそ、家づくりとは夢づくりなのです。
そのことを家づくりを請け負う私たちは、決して忘れてはいけません。
そして夢の家づくりを任される職人は、最高に腕のいい職人でなくてはならないと思います。
元職人として、ここだけは絶対に譲れません。
そして職人は1人ではなく、何十人もの職人がチームを組んで家を建てています。
チームの力は掛け算です。
腕が悪かったり、輪を乱す職人がいるだけで、チーム全体がマイナスに転びます。
そのため弊社では、絶対的に信頼できる職人さんにしか仕事は依頼しません。
私の家も、今の職人チームに建ててもらいました。
元職人として、彼らの腕は私が保証します。
もし弊社に家づくりを依頼していただけるのであれば、私が選びに選んだ最高の職人たちが、あなたの夢を形にしてくれます。
ぜひ一度、弊社に家づくりについてお話を聞きにきてください。
弊社と一緒に、あなたの夢づくりを楽しんでいきましょう。
お会いできる日を、楽しみにしています。